
写真中央、住宅に囲まれるように木々があります。また手前には草が生い茂ってます。ここが玄慶の池と言われる場所です。字名が玄慶という土地ですが今は変わってるのかな?
話は『新明石の史跡』にあります。室町時代初期(南北朝時代)、中国(元)から玄慶という楽人がやってきました。元ではやりにくかったので日本に来たけど、日本もドタバタの真っ最中で仕事がない。帰ろうとしたけど疲れて楽器も運べなくなったので、明石の八木の地に埋め、弁才天を祭り、周りに池を掘り、帰っていったとか。
土地名が先にあり、それに合わせて伝説が生まれたらしいですね。『明石こそわがふるさと』『明石市史 下巻』の昔話の項目にはこの話がありません。「明石 昔話」等適当なキーワードでぐぐっても出なかったりしました。
『あかし昔ばなし』昭和53年1月1日発行 神戸新聞明石総局編集 明石文庫の会発行 980円
南側から撮影。谷八木小学校西側、山陽鉄道中八木駅の南側に新しくできた八木遺跡公園から、北に向かう道を進むとここがあります。手前は駐車場……、だったかな?
草むらの周りを囲むようにして田んぼへ抜けていく道。昔から残ってる道でしょうか。
2000年ごろ、交番で「玄慶」という地名を聞いた時は、今の八木遺跡公園あたりがその地名でした。家が建っており、そこの方に聞いたことがありましたが、玄慶の池の話については判りませんでした。あちこちうろついたあげく、その北でやっと発見。その頃と変わってないような……。
草むらの奥に木が生えている塚があります。この草むら、よくみると水が張ってます。ここは池だったのね。
囲むように建っている住宅の中の一軒からおっさんが見てたので理由を話し、住宅の塀沿いに歩いてみました。そこから塚を撮影。水面が見えます。
塚の東側。住宅と挟まれたところにも水面が見えます。アオコでびっしり埋まってたような。
塚の上。弁財天の祠らしきものは見当たりません。
ぱっと見た目は、なんか忘れられた場所というか、いつ埋め立てられてもおかしく無さそうな場所ですが、どうなるんだろう。
季節が冬なので侘しいような風景になってるだけかもしれません……、と思ってみます。また夏に来てみよう。
住宅の裏手なので、うろうろしていると怪しまれますねー。このときは勝手口から見てたおっさんが親切に対応してくれたのでよかったです。