
1年ぶりに発掘地に行ってみると、フェンスで囲まれてました。市有地になってるようです。公園でも作るのか、その辺は判らなかったのですが。ということで写真を撮影し、差し替えておきます。
1985年3月、 国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏らによる発掘調査が行われた西八木遺跡の場所です。直良信夫氏が腰骨を発見した場所は、1948年の時点ですでに海中に没しており、1985年の調査は当時の発見地に近い陸地で行われたようです。
この辺一体の海岸線は屏風ヶ浦と呼ばれる切り立った崖が連続して続いている土地だったようです。流れの速い明石海峡の海流等で土地は削られて後退し、神社や工場なども崩れて落ちていったりしてたようです。『明石市史』上巻には江戸時代天保8年(1837年)「西浦辺組絵図」を紹介しており、各地の侵食の記録を書いてます。西八木の辺りは宝永年間(1704年〜1710年)からの120年で5間から15間(約9mから27m)後退したとか。さらに現代になり付近の川の整備が進んで土砂の流出が減ったことで海岸線の砂浜が痩せて侵食は酷くなり、数十年で150m後退したところもあったとか。
『中尾のすがた むかし・いま』には明治4年から昭和40年(1871年から1965年)の、海岸線後退量が書かれています。明石原人発見地周辺がもっとも激しく、30mから120mも後退してたそうです。
侵食対策の大規模な工事が行われたのは戦後で、『明石市史 現代編1』によると1961年度から工事が開始。少し東の藤江あたりは63年度から3年かけて護岸工事をしたそうです。現在は防潮堤のおかげで侵食は止まっていますが、むき出しになっていた崖には植物が生えて覆いつくしたり等、かなり雰囲気は変わっています。
過去の屏風ヶ浦の様子は『明石市史』等のモノクロ写真で知ることができます。現在では屏風という感じがするところは少なく、90年半ばに千葉県銚子市にある「地球の丸く見える丘展望館」から見た屏風ヶ浦の方が、屏風という感じがしました。
薄茶のマンションとコンクリート製の張り出しが結構目立ちます。そのすぐ西に笹で覆われた崖と、駐車場のような空き地があります。そこに説明板が建っています。
説明板のほかには、発掘に関係するような物はなにも見当たりません。
2004年12月12日撮影。立っている説明文。昔はここから西80mほどの場所、長谷部教授らによる発掘地に説明板などが立ってたそうですが、今は何処にあるのか見つけることができませんでした。引っこ抜かれたんでしょうか?
「原人」とは書かれてますが、発見者の直良信夫氏や吉岡助氏、春成秀爾氏らはそれより新しいネアンデルタール人級の旧人としています。1985年の調査で出てきた遺物などは旧人が存在してたことを裏づけるものでしたので、「明石旧人」と書いたほうがいいのではないかと思いますがどうなんでしょうね。というか現在の考古学では時代の区分はどうなってるんでしょう……。原人、旧人という言葉はあるのかな。
2006年1月1日現在、この説明板はフェンスのすぐ向こう側にあります。
2006年1月1日撮影。高いフェンスに囲まれています。左側に明石海峡があります。
2004年12月12日撮影の時の様子。何も囲まれていない空き地でした。
2004年12月12日撮影。小型のボートがひっくり返った状態で置かれてます。廃棄してそうにも見えますがよく判らないので遠巻きにみるだけ。同月23日にも訪れてみましたが、オレンジ色の方はありませんでした。
2002年10月2日撮影。このときは少し離れたところにボートがあります。
なんか寂しいです。
明石人(旧人)の話は直良三樹子著作の『見果てぬ夢「明石原人」』とか、春成秀爾氏らの本がでていますので、本屋とか図書館で一読することをお勧めします。
1985年3月の発掘のときは私も見学に行きました。高校を卒業したばかりで関東に発つ少し前のことでした。写真も撮りましたが今何処にあるのか。