
現在地を探すのはかなり手間がかかりました。たぶんここだろうと思うのが写真中央の駐車場から左のマンションにかけての場所。今は整地されています。右奥に写っているのは二見北小学校で、このさらに右には源太塚があった霊園があります。
1973年の『特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図及び地名表』(以下、「1973年の遺跡分布」)に載っていたものです。1985年の『明石史資料(考古編)第4集』には記載がなく、以下のような文があります。
『全国遺跡地図−兵庫県−』(文化庁文化財保護部 1982)には三十一基記載されているが、そのうち古墳でないと思われるものは除外し、記載されていないものは追加した。
ということでこれは古墳ではなかったんでしょうね。調査したのかは判りません。ちなみに「1973年の遺跡分布」も古墳が31基書かれてますが、源太塚古墳1号基〜17号基と源太塚古墳群が別々に載ってます。入れないと30になります。
近くの畑で作業してた方にお話しを伺ったのですが、裏側に古墳があったとされるA氏は引っ越したとのこと。で、家があった大体の場所を教えてくれたのが最初の写真です。
また別の方に聞いたところ、そのお宅のおばあちゃんと話をしたことがあったという方で、確かに塚のようなものがあったと話してくれました。A氏の名字は近くにはその方くらいしかいなかったということで、たぶんここが可能性が一番近いんだろうなと思っています。
少し南にある道から撮影。写真中央のタンクの辺りに家があったそうです。その北に塚のようなものがあったと。
ちょっと西に出たところに祠と木がありました。東山の上古墳と関係があるか無いか判りません。この手の木は区画整理とかでも切られない特別な木なのかなと少し思ったり。そういう木ってありますね。切ろうとすると……、という話が。
源太塚があった霊園から北を撮影。左にみえるのが二見北小学校です。
『明石市史 現代編1』についてた昭和22年(1947年)頃の地図で判ったのですが、どうやら昔の二見中学校は、現在の二見北小学校あたりにあったようです。中池という溜め池を埋め立てて現在の位置に移ったようです。
とすると、その東というと源太塚の少し北あたりになるな、ということで撮影したものです。多分ここらではないと思うのですが。
「1973年の遺跡分布」に書かれてた時代の、二見中学校のプールの位置が分かればいいのですが。
2004年12月19日撮影。実は最初にあたりをつけたところ。手前の池は今池で、右に少し見えるのは二見西小学校(もしくは二見西幼稚園)。池の奥の木が生えている場所は二見中央公園です。明姫幹線にかかる歩道橋から南西方向を撮影してます。
ここは東山の上古墳があったとされる場所、ではないはずです。
「1973年の遺跡分布」には、場所が以下のように書かれてます。
二見中学校プールより東へ30mのところにA氏宅(注:氏名が書かれてましたがここではA氏と表記します)がありその北(裏側)に位置する。
まず問題なのが二見中学校の位置。1973年の話なので今は変わっているかもしれません。しかし所有している1973年10月の地図では、2004年と同じ位置にありました。二見中学校のウェブページはないみたいで、歴史を辿ろうとしても判らなかったので、たぶん同じ位置でいいだろうと判断しました。これが間違いだったのですがー。
実は「1973年の遺跡分布」には、遺跡の場所を示す印と番号がふられた地図がついています。しかしそれによると東山の上古墳は現在のカルフール明石の東30m付近になっていました。カルフール明石は以前はダイエーハイパーマート明石店、さらに1973年10月の地図には東洋紡績明石工場となっています。中学校を潰して工場になったと考えるのはちょっと無理があるかなと思いまして。さらに1973年の遺跡分布地図についてる遺跡の場所を示す地図は、いくつか明確な間違いがあるのでした。そのため、この地図の印についてはあまり重要視しない事にしました。
最初に当たりをつけたのは、現在の二見中学校の東。国土情報ウェブマッピングシステムの昭和49年度の写真でも、プールの位置がはっきり判ります。しかしその東は池になってます。南東には空き地(もしくは畑?)があり、その先に人家らしき建物が見えますが、100m以上離れています。
プール南東の空き地は現在西部文化会館、二見中央公園になっています。そこに行ってA氏宅を探してみました。
ということで現地に行ってみました。文化会館のとなりの空き地では子供が野球の練習をしてました。その東側にある住宅地にいたおじいさんにA氏の事を聞くと、その名字はこの辺にはいないとの事。で、同じ名字の方を教えてくれましたが、北西に200m離れてました。
しばらく捜し回ってそのお宅につきましたが、名字は合っているものの名前は違うものでした。そこのご主人に少しお話しを伺いましたが、やはりそのような名前は知らないとのこと。また昔から住んでるけど古墳の話は聞いたことがないともおっしゃってました。
また、名字が同じ方の場所を教えていただきましたが、二見中学校から1kmほど離れてしまうので取りやめました。
帰宅後画像処理や整理を行い、21日の夜にこのHTML文書の記述を始めました。書きながらふと「1973年の遺跡分布」の地図をみると、二見中学校の位置に2文字書かれているのに気づきました。この地図は図書館でコピーしたものですが、元々薄かった上にコピーも薄かったので、文字がイマイチ見えにくいのです。あまり重要視しなかったのでこれでいいやって思ったんだけど、やはりもっときちんとするべきでした。
で、「中池」と書いている風に見えます。他に調べてみるとこの池?の上の田んぼが須恵器の破片が出る遺跡になってますが、大池、中池、今池の3つに囲まれた水田一帯
と書かれています。2004年現在では大池と今池はありますが中池はありません。って事は今の二見中学校は「1973年の遺跡分布」の記述がある頃は「中池」で、中学校はその頃別の場所にあったということになります。
「1973年の遺跡分布」の地図では、東山の上古墳は現在のカルフール明石の少し東側に印が書かれてます。もしかすると現在のカルフール明石の場所に二見中学校があったのかもしれない。だから古墳の場所もそれであっているのかも知れないと思い、次の日に行ってみました。
印があった地点は現在駐車場。その近くの畑で働いてた方にA氏宅を聞いたところ、その名字の人が以前いたと判りました。さらに別の地点で別の方に聞いたところ、A氏のおばあさんと話をしたことがある方で、塚のようなものがあったと話してくれました。また、昔の二見中学校は現在の二見北小学校の位置にあったと教えてくれました。
しかし現在の二見北小学校からみると、A氏宅があった場所は南方向になり、東ではありません。
このあと図書館で借りた『明石市史 現代編1』についてた昭和22年(1947年)頃の地図では、現在の二見北小学校か、もしくはその少し北の東洋機械金属あたりに、二見中学校の印が付いてます。プールの位置までは判りません。プールだけ離れたところにあったという可能性もありますが……。
もしかしたらプールの東ではなく「南」の誤植なのかもしれません。
確実なのはA氏の引っ越し先をたずねて本人に直接聞いてみることなのですが、そこまですると趣味の範囲を逸脱して迷惑がかかるかなと思い、切り上げました。ただでさえこの時期は危ないのですよー。デジカメ持ってるヤツが「昔の中学校のプールの場所」なんて言おうものならその後どんなことになるか。それに古墳じゃなかったみたいだし、これ以上探してもしょうがないかなと思いまして。
というか最初に資料をもっと集めるべきでした。