
最初の写真は源太塚古墳群跡の霊園にある源太塚萬霊供養塔です。後ろの建物は二見北小学校。『明石こそわがふるさと』には「源天塚古墳群」と記載されていますが、誤植だと思います。
最初にこの地に来たのは2004年12月7日でした。『明石こそわがふるさと』に載っていたので行きましたが正確な位置が判らないので、適当に当たりをつけて歩き回りました。途中で霊園に出たとき、道の角に石の道標を発見。そこそこ文字が読めるものなのでとりあえず撮影。その後あたりを歩き回りましたが、平坦な土地で塚らしきものはどこにも見当たりません。霊園の近くでおばちゃんに聞いたところ、20年くらい前はこのあたりが「源太塚」とかいう地名だったと教えてくれたものの、古墳は知らなかったようでした。その時点で日も暮れてきたので仕方なく帰宅。
次の日もっと詳しく調べようと図書館で調べたら、『明石史資料(考古編)第4集』に1983年時の地形測量調査図が載っていました。この道、この区画、どこかで見た覚えがあると思ったら、石の道標があった霊園の区画と一緒。最初にもっと調べとけばよかった……。
ということで12日後に行って来ました。霊園の奥には立派な供養塔が建てられていました。
『特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図及び地名表』には、1号墳から17号墳まで書かれています。1号墳は昭和36年(1961年)1月に盗掘にあっています。2号から17号は保存状態よしと書かれています。1983年、84年の調査で、小さな塚が100基ほど確認されたそうです。
伝承では、三木合戦の時、戦死した梶原平左兵衛景行(梶原源太景李の子孫)とその家臣を埋葬した
とのこと。羽柴秀吉による三木城の兵糧攻めの事みたいですね。調べてみると三木城を支援していた高砂城主梶原景行の名が出てきます。秀吉による高砂城攻撃を一度は防いだものの損傷激しく、次の攻撃前に城を放棄、一族将兵は三木に送り、自身は剃髪して鶴林寺近くの林に蟄居したとか。その後は判らないそうです。
『明石史資料(考古編)第4集』には、出土した副葬品等から墳墓の造営は江戸時代初期以降と確認と書かれています。高砂もそう遠くない所なので、そのような話が江戸時代にできたのかも……。
霊園の全景です。ブロック塀の手前にあるのが石の道標。お墓を撮影するってのもちょっとアレかと思いましたが、とりあえずは謙虚な気持ちで撮影に臨みましたの事よ。
道標ですが、奥にももう1基ありました。画面中央少し左です。
小さいほうの道標。「右 明石大坂道」と彫られています。コンクリートというかセメントで補修された跡があります。
この道標、盗まれて行方不明だったのですが返ってきたものだそうです。『新明石の史跡』に書かれています。帰ってこれてよかったですね。
霊園の塀にあったほう。こちらのほうが大きく、全面に文字が彫られています。「西 左明石大坂道」。下にはペットボトルが巻きつけられています。なんか補助ロケットみたい。
「南 すぐ三木市場道」。
東 天保、えー、セメントのせいで読めん。これまた『新明石の史跡』によると、自動車がぶつかって補修したと書かれているので、その跡でしょう。「天保十一子仲春建立 世話人二見何集」と彫られているそうです。天保11年というと1840年ですね。黒船来航の13年前です。
「北 右尾ノ上高砂 すぐ二見」。塀との間が開いてるので、なんとか撮影できました。
少し離れたところから、魚住浄水場の給水塔が見えました。近くにあるスーパーマーケット「カルフール明石」の屋上駐車場からもよく見えます。
古墳名というか、この辺の地名にもなっていた「源太」の名を持つ梶原源太景李は、木曽義仲追討の宇治川合戦に名前が出てくる方でした。熊本県阿蘇郡阿蘇町に源太ヶ塚という場所があり、源太ヶ塚古墳があるのだそうです。みんなでつくろう!屋根のない博物館 シリーズ28に石棺の写真などがあります。
なお、近くに小学校や幼稚園があるうえ周りの道は細いので、デジカメを持ってうろうろしていると人によっては変質者と間違われる可能性があるので注意しましょう。