2000年明石城一般公開

前置き

兵庫県下の城といえば、国宝の姫路城があります。他にも忠臣蔵で有名な赤穂城、秀吉の兵糧攻めで有名な三木城等の名前もあがると思います。

明石市に現存する明石城はそれらの城と比べるとマイナーな存在ではありますが、全体が公園として開放されており、憩いの場としてごく自然に親しまれている施設に変貌しています。また堀や櫓など一部の機構は今も現存しています。

1620年4月に完成した明石城は、その後火災や解体の危機を乗り越えてきてます。1995年1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の際には石垣や櫓にかなりの被害をうけましたが、同年10月から修復工事が始まり、2000年3月に工事は完了。元の姿を取り戻しました。

このページを公開した後、2003年か2004年あたりから、土日に限って櫓内の一般公開が始まりました。当初は巽、坤櫓の1階を週ごと交互に公開していたそうですが、2005年現在では坤櫓の1階のみ公開しています。巽櫓は2004年秋(だったような気が)の台風で修理が必要になったのですが、なんだかんだで修理が遅れてて非公開になっている、ってのを聞いたんですけど、忘れてたり記憶があやふやだったりするので信用しないように。2005年9月現在どうなっているのかわかりません……。

明石城拝見

遠景

明石城の2基の櫓正門付近からの画像。南側から撮っています。向かって右が東、大阪の方向。向かって左が西、姫路や岡山の方向。

日本の城の分類には、山城(岐阜城等)とか平城という区別がありますが、明石城は平山城になります。まわりより若干高い丘を利用して造られています。2基の櫓が石垣の上に建っていますが、この石垣は丘の斜面を利用して組み上げられたものです。櫓の建っている個所が本丸になります。

櫓の名称は左から坤(ひつじざる)櫓、巽(たつみ)櫓。坤や巽はそれぞれ方角を示してます。子、牛、寅、卯……の十二支を使い方角を表すと、子が北、午が南、卯が東、酉が西を表わしますので、坤は南西、巽は南東を表わします。それぞれ本丸の南西の端、南東の端に建てられています。

他にも本丸北東に艮(うしとら)櫓、北西に乾(いぬい)櫓がありましたが、艮櫓は明治14年、乾櫓は明治34年に解体されています。艮櫓の解体資材は神戸の現・湊川小学校の建築用材、乾櫓の解体資材は坤、巽櫓の修理用として一部が流用されています。

2基の櫓を結ぶ塀は明治34年の修理で大部分が取り除かれてそのままになってましたが、今回の大修理の際に復元されました。

手前は芝生のある公園です。芝の養生の時期を除いて立ち入り自由。ここで弁当を食べてる親子連れもよく見かけます。松の木のまわりにはキノコがよく生えるので、初夏〜初秋の頃は注意して見てみると面白いかもです。

巽櫓

巽櫓その12000年3月11、12日に、両櫓内部の一般公開が行われました。11日はあいにくの雨の為、途中で見学が中止されましたが、巽櫓だけはなんとか入ることができました。

巽櫓、石垣、木、傘をさした人が写っています。撮影に使用しているデジカメが35mm広角レンズを使っているために遠近感が若干誇張されていますが、なんとなく人と櫓の大きさの比較ができるのではと思います。

北面、西面には窓(というのか?)が見当たりません。そのせいか、映画のセットのような感じをうけました。

巽櫓その2本丸と、その東側にある二の丸との間から撮影。兵庫県南部地震で壁や石垣に亀裂が入ったり崩れたりしたものの、両櫓とも内部の木組みはあまり被害を受けてなかったそうです。そのために修理の手順は以下のように行われてます。

  1. 櫓を持ち上げて本丸の奥に移動
  2. 石垣の修復
  3. 櫓を元に戻す
  4. 櫓の修復

巽櫓は62m、坤櫓は48m移動。本丸の奥(北側)へ移動してますが、木々や天守台(天守閣が建つ事を想定して造られた台)等を避けるようにジグザグに動いてます。移動速度は時速2m。移動完了まで約1ヶ月。

巽櫓内部

梁の部分1階内部の様子。天井付近を写しています。丸太のまんまの梁(はり)があるのには少々驚き。強烈な力強さを感じます。

というか、梁って元々どこのでもこういう力強い感じでしたっけ?

筋違いたるところに筋違(すじかい)が入ってますが、明治34年の修理の際に加えられたようです。全部が全部その時のものかどうかはちょっと調べていません。

明治の修理の際に付け加えられた筋違のお蔭で、兵庫県南部地震の際にも崩壊を免れたとの事です。

継いである部分木を継いで伸ばしてあります。こういう継ぎ方をなんていうんでしたっけ? なんか名称があったはずですが……

急な階段1階から2階への階段。非常に急な造りになっています。敵兵が乗りこんできた時に攻めにくく守りやすいというのもあると思いますが、階段が占有する空間をできるだけ抑えようとしてこうなってるという面もあるのかなぁとか思ってしまいました。ここまで敵兵が乗り込んできたら落城は必至だと思いますし。

って、所詮違う時代を生きている人間が、違う時代の事についてあまり断定した物の言い方をするのは危険でしょうね。とりあえず想像するのは自由だけど。

階段の正面2階から3階への階段。今回の公開では3階は公開されませんでした。「頭上注意」の札と階段の水平の板を固定するクランプが見えると思いますが、これらはもちろん江戸時代のものではありません。……たぶん。

坤櫓

坤櫓雨で公開が中断してしまったために入れなかった坤櫓。左下に見える土塀で巽櫓と繋がっています。

櫓の大きさはこの坤櫓の方が巽櫓より大きく、推定重量は坤櫓が340t、巽櫓が240t。

修理の際には一旦持ち上げて移動させてます。100kgの重さを持ち上げる人が2400人いれば持ち上がりますね。それだけの人間が持てるようにできるかどうか(手を添える場所があるかどうか)という問題はとりあえず考えないということで。

天守台から見た坤櫓本丸西側に張り出した形で建つ天守台から撮影。手前にみえる土塀は坤櫓と天守台を結ぶものです。巽櫓はこの画像の左の方向にあります。

奥のほうに見えるビルは明石市内の町並み。明石城のある明石公園のすぐ南側にJR明石駅があり、さらにその南側に商店街や国道2号線が並び、明石の中心部を形成しています。

約1kmほど東には東経135度の子午線が縦断しており、その線上に天文科学館が建っています。

約1kmほど北には新幹線が走り、通過中の車内からは明石公園内の森、図書館、坤櫓をみることができます。巽櫓が見えたかどうかはちょっと覚えていません。

1981年か82年頃、昭和の時代の修理終了後にも一般公開しているはずです。内部を見た覚えがありますんで。普段は内部は非公開なので、櫓の中にも説明板等は特に無いし、木組みなどがまる見えのあっさりしたものなんですが、それだけに江戸時代当時の匂いがそのまま伝わってくるかのような錯覚を覚えます。できれば、保存の障害にならない程度でこれからも時々公開してくれると嬉しいのですが。かなり多くの方が興味を持っているようですし。

この日も小雨が降っていたにもかかわらず、かなりの行列が出来ていました。40代後半〜60代の方が多かったように思います。中の急な階段のところでは皆さん大変だったようで。女性のかたは短いスカートなどは履かないほうがいいと思います。

11日は雨が強くなってきたために途中で公開が中止になりましたが、ギリギリで入れなかったオバハン軍団が関係者の方にいろいろと文句をたれてました。一言いわないと気がすまなかったんでしょう。お疲れさんです>餌食になった関係者さん

天守台

天守台本丸西側に張り出した形で建つ天守台。北側(画像右側)にある石段から天守台の上に登れます。台は建てられたものの、天守閣自体は建築されませんでした。天守閣は城主の住まいでもありましたが、戦国時代を終えてからは住まいも徐々に平地に移っていったようです。平時であればその方が何かと都合もよかったんでしょう。赤穂城もそうですが、戦国時代を終えてから造られた城には天守閣のないものが多いそうです。

江戸城にも天守台が現存しています。その上には壮大な天守閣も建てられてましたが、何度目かの火災での焼失後、復旧するのをやめてしまったとか。江戸城天守台は巨大な物で、明石城天守台は比べ物になりませんが、それでも結構大きな石構えをしてると思います。

正門跡

明石城正門跡まん中に傘を持った人が写っています。右手のほうにも判りにくいですが一人写ってますね。門の大きさが想像できますでしょうか。門がどういう様相をしてたのか判らん事には想像のしようがないですか。

JR明石駅の北側の出口を出て左に曲がり、少し歩くとこの正門が見えてきます。

明石藩と明石城のエピソード

松平家

1617年から1869年まで続いた明石藩は徳川幕府との繋がりが割合強いようで、初代藩主小笠原忠真(おがさわら ただざね)(当時は忠政)以降、幕府直轄として本多、信濃松本から松平、美濃加納から大久保、丹波篠山から松平、大和郡山から本多と変わってます。そして1682年に越前大野から松平直明を迎えてからはこの松平家が最後まで統治しています。途中で11代将軍徳川家斉の25男を養子にむかえてますが、このとき迎えるための費用などで一時藩の財政が非常に苦しくなったこともあったそうで。

ちなみにその子は明石藩15代藩主松平斉宣(まつだいら なりこと)。1840年に藩主になるも1844年に死去。まだ二十歳だったらしいですね。将軍の子ということで傍若無人だったとかの話があるようです。参勤交代の際に尾張藩の領内で行列を横切った3歳の子供を取り押さえて切り捨てになるという事件が起こり、激怒した尾張藩から藩内通行禁止をくらったという話があるのも松平斉宣の時です(史実か?)。

藩主になった当時は将軍の子でしたが、翌1841年に徳川家斉が死去。二男家慶が12代将軍職を継いだことにより、松平斉宣は将軍の弟ということになりました。斉宣の死去(病死)後、先代藩主松平斉韶(まつだいら なりつぐ)の実子慶憲(よしのり)が16代藩主になり、明治2年2月までの26年間務めています。就任期間は父である斉韶より1年長いです。退任した後慶憲の長男直致(なおむね)が明治2年6月の版籍奉還までの5ヶ月を17代藩主として務め、その後明石藩知事になり、明治4年7月をもって退任。松平家による明石統治が終焉しています。

宮本武蔵、伊織

初代藩主小笠原家の時代、小笠原家の客人だった剣豪宮本武蔵も明石に来て城下街の町割りをしたと言われています。そのため、宮本武蔵作と伝えられている庭もいくつかの寺にのこされています。このとき武蔵の養子(兄の子だった)宮本伊織が1631年に20歳で明石藩家老職となってます。1632年11月に小笠原家が豊前小倉に転封され、伊織も九州は小倉の地へ。歴史関係の番組や本で時々名前を見かけますが、悪い話を聞かない人です。

明石城解体一転、公園へ

1873年(明治6年)、廃城令により明石城は廃城となります。1881年(明治14年)艮櫓の解体が行われたことをうけて旧藩士が動き出し、明石城址を公園として保存活用するよう県に申し入れてます。これにより明石城址は一旦公園となり、その後1898年宮内庁が管理する御料地になりました。1918年に県が一部を借り受けて県立明石公園とし、1929年には御料地全域を払い下げられ、1932年に現在の形になったということです。

公園内には桜やクスノキをはじめとする木々が茂り、多くの生物がいます。おそらくは粘菌の類いも多く見つかるのではと思っています(少なくとも1種類は確認)。堀には白鳥、鴨、アヒル、アオサギ等の鳥や鯉等の魚、カメ等が生息。古墳などもあります。施設としては県立図書館、明石市立図書館、陸上競技場、野球場等があります。野球場は軟式高校野球全国大会の会場にもなっており、プロ野球のジャイアンツがキャンプ地として来ていた時代もありました。ジャイアンツ時代のジャイアント馬場さんが明石で奥さんを見初めたという話もあったような気がします。

城を思わせる建築物は2基の櫓程度しかありませんが、堀や石垣が多くのこされていますので、当時の面影もある程度想像できるのではと思います。

明石藩ネタの映像作品

「水戸黄門」

TV「水戸黄門」で明石藩が登場したことがあります。天守閣らしき櫓が月の光に照らされているシーンがあったような気が……。しかしあの番組で今だ出たことがない藩&城ってあるんやろか。

里見浩太郎さんが水戸光圀を演じている2003年1月20日放映分(13話)でも明石ネタやってました。松平直明の頃のようです。町の皆さん、江戸弁みたいなの喋ってましたがこれはご愛敬ということで。浜辺のシーンでは明石海峡越しの淡路島を思わせる島が写ってましたがロケ地はどこだったんだろう。

冒頭に出てた魚売りの女性をしょっ引くシーン、む、胸のあたりを縄で縛られててなんというかもうハアハア。ということで調べてみたらウルトラ マンコ スモスでのヒロイン森本綾乃隊員を演じてた鈴木繭菓さんでした。他にもフィギュアにもなった悪代官でおなじみ川合伸旺さんも私腹を肥やす家老役で登場してます。

しかしアイキャッチの葵の御紋、えらく安っぽい感じになってしまってるのね。

「十三人の刺客」

他には映画「十三人の刺客」(昭和38年)がありますね。藩主松平斉韶が将軍の弟ということでかなりの暴虐ぶりを発揮。幕府老中から命を受けたお目付役が計十三人で斉韶暗殺を決行。美濃落合宿を決戦場と定め、宿場を丸ごと借り受けて戦闘用に改造。また斉韶一行を2手に分けさせて兵力を分散させます。斉韶の側にはお目付役の親友がおり、互いに策をめぐらせたりしてます。映画は片岡知恵蔵、里見浩太郎、嵐寛寿郎、西村晃、丹波哲郎等の豪華キャスト。1990年にはTV版が作られ、フジテレビ系で放映されてます。こちらは仲代達也、夏八木勲、米倉斉加年、田中健、丹波哲郎等。映画版は傑作らしいですがTV版はイマイチ物足りませんでした。

実際には将軍の弟は斉韶の次の斉宣ですけど、その辺は映画のフィクションってところなんでしょうか。

参考

兵庫県立明石公園 明石城 震災復旧の記録 パンフレット
編集:兵庫県/財団法人文化財建造物保存技術協会
mailto:other@coomaru.com
公開:2000年3月20日
更新:2004年9月6日
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